馮唐は孝行で知られ、
文帝の時に郎中署長となった。あるとき文帝は彼に「貴方はどうして
郎となったのか?家はどこにある?」と尋ねたので、馮唐はありのまま答えた。文帝は「私は鉅鹿で戦った趙将李斉の賢明さを聞いて以来、鉅鹿のことを思わない日は無い。貴方は彼を知っているか?」と聞いた。馮唐は「李斉は
廉頗、
李牧には敵いません」と言った。文帝は「廉頗や李牧を将にできれば
匈奴を怖れることもないのだが」と嘆息したが、馮唐は「陛下が廉頗や李牧を得たとしても用いることはできないでしょう」と言ったため、文帝は怒って禁中に入っていった。しばらくして文帝は馮唐を召し出し、「どうして公衆の面前で私を辱めず、人のいないところで言わないのだ?」と叱責した。馮唐は「私は田舎者で隠すことを知らなかったのです」と答えた。
文帝は馮唐に「貴方はどうして廉頗や李牧を得たとしても用いることはできないと言ったのだ?」と聞いた。馮唐は「古の王は将を派遣する際には、軍の功績や恩賞は国の外で決められ、帰ってから報告したと聞きます。李牧も恩賞を外で決め、国内からそれを覆すことはしませんでした。だから李牧は匈奴を追い払い
秦を抑えることができたのです。私が聞くところでは、雲中守の魏尚は私費まで出して士卒に振る舞い、このお陰で匈奴も雲中を避け、匈奴が侵入した時には魏尚が迎撃して多くの敵を殺しました。そもそも兵士は農地を離れて従軍しているのですから、どうして法令を知っているでしょう。力戦して首級を挙げたところで、功績を幕府に報告すると、見合う恩賞は与えられず、役人が法でがんじがらめにするという状態です。思うに陛下は法には大変明るいのですが、賞は大変軽く、罰は大変重くなっています。また魏尚は報告した首級の数が6つ合わないというだけで罪となり、爵位は削られ刑徒となっています。そうしたところから、陛下は廉頗や李牧を得たとしても用いることはできないと言ったのです」と答えた。