天保元年(
1830年)、父の隠居の後を受け17歳で第10代藩主に襲封。藩主時代は将軍・家斉の片
諱をもらい斉正と名乗っていた。後、明治元年(
1868年)に直正と改名した。当時の佐賀藩は、
フェートン号事件以来
長崎警備等の負担が重く、さらには先代藩主の奢侈・贅沢や、一昨年の
シーボルト台風の甚大な被害もあって、その財政は破綻状況にあった。直正自身も初入部のため、江戸藩邸を佐賀に向けて出発するやいなや、藩に貸付のある商人たちが藩邸に押し寄せ、借財返済を申し立てたため、直正の行列は進行を停止せざるを得ない屈辱的な経験をしている。
直正は、襲封するとともに藩政改革に乗り出したが、当初は江戸にいた前藩主・斉直とその取り巻きら保守勢力の顔をうかがわねばならないことが多く、実行できた改革は倹約令の発令とがせいぜいであった。しかし天保6年(
1835年)、藩の中枢であった
佐賀城二の丸が大火で全焼するという危機にあたり、荒廃していた佐賀城本丸に御殿を移転・新築させる佐賀城再建を斉直の干渉を押し切って実行した。
これを皮切りに、役人を五分の一に削減するなどで出費を減らし、借金の8割の放棄と2割の50年割賦を認めさせ、
陶器・
茶・
石炭などの産業育成・交易に力を注ぐ藩財政改革を行い、財政は改善した。また藩校
弘道館を拡充し優秀な人材を育成し登用するなどの教育改革、小作料支払い免除などによる農村復興などの諸改革を断行した。役人削減とともに藩政機構を改革し、政務の中枢に出自に関わらず有能な家臣たちを積極的に登用した。さらに
長崎警備の強化を掲げ、幕府が財政難で支援を得られなかった事から、独自に西洋の軍事技術の導入をはかり、精錬方を設置し、
反射炉などの科学技術の導入と展開に努めた。その結果、後に
アームストロング砲など最新式の西洋式大砲や鉄砲の自藩製造に成功した他、
蒸気機関・
蒸気船までも完成させることにつながっている(それらの技術は母方の従兄弟にあたる
島津斉彬にも提供されている)。