特に現代では後者の意味として、即ち近現代の
西洋哲学における「解釈」する事に対する
理論、
方法などを
吟味する哲学の一つの重要な分野として、認識されている事が多い。そもそも、ここでは「解釈する」とは理解不能な言葉や事柄を理解可能な形で、
表現するないしは伝達するといった意味である。(
翻訳や伝達といった
ニュアンスも含んでいる)解釈学は古代以来、往々にして西洋思想は常に未知なる理解不能な思想と接し、これを自分たちの思想に取り入れるために、常に自分たちに理解できるような形で、取り入れてきた(解釈した)という思想的背景の元、育まれてきたものである。
学問論的には、解釈学的な問題への着手は、
自然科学的な着手(「
経験」)に対置できるのではなかろうか。ヴィルヘルム・ディルタイは、そこで
自然科学と解釈学(精神科学、今日いうところの
人文科学)を対置させている。自然科学は、原因(例えば、人間の
死の原因を説明するように)を問うが、精神科学は、より包括的な意味合いで、何ものか(例えば、死とは何だろう、私はどのように死と係わるのだろうか)を問うのだというのである。
社会科学においては、
主観的な解釈学と
客観的な解釈学が区別される。前者が、「
感情移入的な理解」、つまりある人間の個人的な状況の中に入っていく(
共感と呼んでもよいのだが)のに対して、後者、客観的な解釈学は、ある行為もしくは状況の、動いていく
動機や意図を理解しようとする。このことは、とりわけ、ある状況や出来事の
文脈の中の特徴を取り出してそれを解釈する中で生じてくる。客観的な解釈学は、また社会学の
質的研究の方法も提示しようとする。