11歳の時、父鎌足が死去。父の生前の関係から、近江朝に近い立場にいたが、
壬申の乱の時は、数えで13歳であったために何の関与もせず、近江朝に対する処罰の対象にも
天武朝に対する功績の対象にも入らなかった。だが、
中臣金をはじめとする鎌足の同族(
中臣氏)の有力者が近江朝の要人として処罰を受けたこともあって、天武朝の時代には中臣(藤原)氏は朝廷の中枢から一掃された形となっており、有力な後ろ盾を持たない不比等は下級官人からの立身を余儀なくされたと考えられている。
草壁皇子の息子、
697年軽皇子(
文武天皇)の擁立に功績があり、その後見として政治の表舞台に出てくる。また後室の
橘三千代の力添えにより、皇室との関係を深め、文武天皇に娘宮子を嫁がせ首皇子(
聖武天皇)を産ませている。さらに橘三千代との間の娘である光明子を聖武天皇に嫁がせたが、光明子は不比等の死後、不比等の息子の
藤原四兄弟の力によって光明皇后となり初の人臣皇后の例となった。