元禄9年(
1696年)、徂徠31歳のとき、5代将軍・徳川綱吉側近で
幕府側用人の
柳沢吉保に抜擢され、15人扶持を支給されて彼に仕えた。のち500石取りに加増されて柳沢邸で講学、ならびに政治上の諮問に応えた。
宝永6年(
1709年)、徂徠44歳のとき、吉保の失脚にあって柳沢邸を出て
日本橋茅場町に居を移し、そこで私塾
?園塾を開いた。やがて徂徠派というひとつの学派(?園学派)を形成するに至る。なお、塾名の「?園」とは塾の所在地・茅場町にちなむ(隣接して
宝井其角が住み、「梅が香や隣は荻生惣右衛門」 の句がある〉。
享保7年(
1722年)以後は8代将軍・
徳川吉宗の信任を得て、その諮問にあずかった。追放刑の不可をのべ、これに代えて自由刑とすることを述べた。豪胆でみずから恃むところ多く、中華趣味をもっており、
中国語にも堪能だったという。多くの門弟を育てて享保13年(
1728年)に死去、
享年63。
元禄赤穂事件における
赤穂浪士の処分裁定論議では、
林鳳岡をはじめ
室鳩巣・
浅見絅斎などが賛美助命論を展開したのに対し、「義は自分を正しく律するための道であり、法は天下を正しく治めるための基準である。礼に基づいて心を調節し、義に基づいて行動を決定する。今、赤穂浪士が主君のために復讐するのは、武士としての恥を知るものである。それは自分を正しく律するやり方であり、それ自体は義に適うものである。だが、それは彼らのみに限られたこと、つまり私の論理にすぎない。そもそも
浅野長矩は殿中をも憚らず刃傷に及んで処罰されたのに、これを赤穂浪士は
吉良義央を仇として幕府の許可も得ずに騒動を起こしたのは、法として許せぬことである。今、赤穂浪士の罪を明らかにし、武士の礼でもって切腹に処せられれば、彼らも本懐であろうし、実父を討たれたのに手出しすることを止められた上杉家の願いも満たされようし、また、忠義を軽視してはならないという道理も立つ。これこそが公正な政道というものである」と私義切腹論を主張し、「徂徠擬律書」として上申。結果的に採択されるに至った。
:よく知られる
江戸落語では以下のストーリーである。徂徠が貧しい学者時代に空腹の為に金を持たずに豆腐を注文し店先で食べてしまう。豆腐屋は、それを許してくれたばかりか、貧しい中で徂徠に支援してくれた。その豆腐屋が、浪士討ち入りの翌日の
大火で焼けだされたことを知り、金と新しい店を豆腐屋に贈る。ところが、義士に
切腹をさせた徂徠からの施しは江戸っ子として受けられないと豆腐屋はつっぱねた。それに対して徂徠は、「豆腐屋殿は貧しくて豆腐をタダ食いした自分の行為を「
出世払い」の契約にして「盗人」となることから自分を救ってくれた。法を曲げずに情けをかけてくれたから、今の自分がある。「自分も学者として法を曲げずに浪士に最大の情けをかけた、それは豆腐屋殿とおなじ。」と法の道理を説いた。さらに、武士たる者が美しく咲いた以上は、見事に散らせるのも情けのうち。
武士の大刀は敵の為に、小刀は自らのためにある。」と武士の
道徳について語った。これに豆腐屋も納得して贈り物を受け取るという筋。浪士の切腹と徂徠からの贈り物をかけて「先生はあっしのために自腹をきって下さった」と豆腐屋の言葉が
オチになる。