前209年、
陳勝・呉広の乱が発生。これは半年余りで鎮圧したものの胡亥は更なる土木事業や奢侈な宮廷生活を追求したことから人心はさらに乖離、胡亥に諫言した李斯を趙高の讒言により処刑した。この頃から
楚の
項梁を中心とした反秦勢力が強大化、秦軍では反乱鎮圧に対応不可能な状態となっていたが、自らは後宮にこもり、政務を趙高に委任していた胡亥には秦朝の現状が報告されることなく、趙高が反乱に関する情報を操作していた。この時期に、趙高が故意に鹿を馬であると胡亥に献上した、いわゆる「
馬鹿」の故事となる出来事があった。
胡亥が即位するに当たって、始皇帝が長子の
扶蘇を後継者とする遺詔を残したが、趙高と李斯により遺詔が改竄されたため胡亥が即位したと『
史記』は記録している。
西嶋定生は「このような偽勅の陰謀があったとしても、それはもともと史料として残る性質のものではない。事実として確認できるのは末子胡亥の即位と、長子扶蘇および将軍蒙恬が勅書を受けて死罪となったということだけであって、偽勅がなされたかどうかということは証明しがたいことである。末子の即位と長子の非業の死という異常の事態と、二世皇帝時代における秦帝国の急速な凋落とが、後世巷間に、このような偽勅の陰謀というフィクションをつくりあげたのではあるまいか」と述べている
[中国の歴史シリーズ『秦漢帝国』(文庫版 ISBN 4-06-159273-4)]。