1932年から大阪市の吏員として
天王寺動物園に勤務。「(動物園は)興行師的立場を捨て去り、一般大衆に迎合することなく動物学的な高所に立って、市民を導いてゆかなければならない」という
1936年の発言に、学者としての彼の姿勢がよくあらわれている。
1945年から
1946年まで
天王寺動物園園長。のち大阪市教育局社会教育課に転属し、
1950年の自然科学博物館設置条例制定に貢献。
嘉隆にとって康隆は30歳近くまで親のスネを齧っていた、兄弟の中で最も出来の悪い息子であり、親子関係は必ずしも良好でなかったという人もあるが、来客に康隆の新刊書を見せたり康隆の『私説博物誌』連載に際しては動物学者として監修者を務めるなど、内心自慢の息子であったらしい。