石奮は功労を積んで
文帝の時に太中大夫となった。学問は無かったが、恭しく仕える事にかけては並ぶ者がなかった。東陽侯張相如が
太子太傅であったが罷免された際、後任として皆石奮を推薦したので、太子太傅となった。
景帝が即位すると、石奮は
九卿となったが、憚られて
諸侯王の相に遷った。石奮の子4名は皆孝行や恭しさによって
二千石の官僚となっており、景帝は「石君と4人の子は皆二千石となっている。人臣の尊寵が石家の門に集合している」と言った。そこで、二千石が5人であったので、石奮は万石君と呼ばれるようになった。
景帝の末年、石奮は老年であったことから引退して上大夫の禄を支給され、朝廷の行事に出席することとなった。子孫に過失があった場合、直接は責めずに食事を取らず、そこで子供たちがお互いに責めあい、長老の口利きで肌脱ぎして謝罪してやっと許された。子孫で冠を被る者がいると、宴会であっても冠を着けた。皇帝が食事を賜ると、まるで皇帝の前に居るかのように必ず頭を垂れ平伏して食事した。葬式を執り行う際は大変悲しんだ。子孫も彼の教えに従った。万石君の家の孝行や恭しさは全国でも有名となり、斉や魯の儒者でさえも及ばないほどであった。
石建も髪が白くなる年齢だったが、石奮は病気も無く元気だった。石奮は茂陵の陵里に移住した。ある日、内史石慶が酔って帰宅する時に車から降りずに外門に入った。それを聞いた石奮は食事を取らず、石慶が肌脱ぎして謝罪しても許されず、兄の石建や一族皆が肌脱ぎして謝罪した。石奮は「内史は貴人であり、里に入れば里の長老も皆走って逃げるものであるのに、内史が車の中で何もせずにいて良いものなのか!」と叱責した。以後、石慶たちは里の門をくぐると、小走りで家まで行くようになった。