大正デモクラシーなど自由主義の空気を背景に人間の生命を高らかに謳い、理想主義・人道主義・個人主義的な作品を制作した。人間肯定を指向し、
自然主義にかわって大正時代の文学の中心となった。1910年刊行の雑誌『
白樺』を中心として活動した。学習院の学生で顔見知りの十数人が、1908年から月2円を拠出し、雑誌刊行の準備を整えたという。同窓・同年代の作家がまとまって出現したこのような例は、後にも先にも「白樺」以外にない。『白樺』は学習院では「遊惰の徒」がつくった雑誌として、禁書にされた。彼らが例外なく軍人嫌いであったのは、学習院院長であった
乃木希典が体現する武士像や明治の精神への反発からである。さらには漢詩や俳諧などの東洋の文芸に関しても前世代より無知であり、雅号・俳号の類を用いなかった。特に
ロダンなど西欧の芸術に対しても目を開き、その影響を受け入れた。また白樺派の作家には
私小説的な作品も多い。写実的、生活密着的歌風を特徴とする
アララギ派と対比されることもある。
武者小路や志賀直哉を敬愛し親交のあった銀座吉井画廊社長
吉井長三が、白樺派の理想を実現すべく、山梨県旧日野春村、旧秋田村、旧清春村の3村合併に伴い1975年(昭和50年)に廃校となっていた旧清春小学校跡地を買い取り、1981年(昭和56)に芸術村を建設。続いて1983年(昭和58年)には芸術村内に清春白樺美術館を建設。同美術館には白樺派同人の絵画や原稿などを中心とした諸資料が収蔵されている。美術館以外の施設としては、パリ・モンパルナスの集合アトリエ「
ラ・リューシュ」を模した会員制貸しアトリエ、東京から移築された
梅原龍三郎のアトリエ、ルオ-礼拝堂、レストラン(ラ・パレット)などがある。