一方、会社設立前年に創設された、トーキーシステムの開発を行う
写真化学研究所(Photo Chemical Laboratory、通称 PCL)は、
1937年関連会社
JOと合併し、
東宝映画株式会社となる。東京宝塚劇場株式会社は、
1943年これを合併し、映画の製作・配給・興行および演劇興行の一貫経営に乗り出し、社名を東宝株式会社と改めた。PCLには
大日本麦酒なども出資しており
[そのため、第一回作品は「ほろ酔い人生」となる。]、東宝は発足当初から、従来の市井の興行師からスタートした映画会社とは一線を画する、財界肝いりの近代企業として期待と注目、そして反発を集めた。なお、その名前の由来は「
東京
宝塚」の略である。
設立時、他社から多くのスターを驚くほどの高給で引き抜いた。
1937年11月12日、天下の二枚目林長二郎が、左顔面を耳下から鼻の下にかけて、斜めに切りつけられ、骨膜に達する重傷を負う。犯人のヤクザは、この秋、長二郎が
松竹から東宝に移籍したことから、松竹系の
新興キネマ京都撮影所長の
永田雅一らに教唆され、犯行におよんだものと判明した。事件後、林長二郎はこの名を松竹に返し、本名の
長谷川一夫を名乗るようになった。
東宝の資本とPCLの技術の上に映画の興行面で展開をもたらしたのは製作における予算と人的資源の管理を行うプロデューサー・システムの本格的導入であり、これをもたらしたのがアメリカ帰りの
森岩雄とされる。松竹の
城戸四郎、日活の
根岸寛一と並び称される森だが、この分野における足跡は大きい。PCL時代より民主的な社風で知られ、監督や大スターでも個室がなく、大物に対しても「さん」付けや「ちゃん」付けであった。
巨匠監督も部下の助監督や名もない俳優を「さん」付けや「ちゃん」付けで呼んだ。
歌舞伎の因習や
ヤクザっぽい親方子方気質を引きずった封建的な他の映画会社の体質を公然と批判した。他社のようにスタッフや俳優を
縁故採用に頼るのではなく公募を戦前より行い、優秀な人材を得た(しかしその優秀な人材が戦後の
東宝争議の中心メンバーとなったため、後に縁故採用を強化し、権力に逆らわない人材を入れる傾向に変わっていった)。