この芥川対谷崎論争のそもそもの発端は、1927年(昭和2年)2月に催された「
新潮」座談会における芥川の発言である。この座談会で、芥川は谷崎の作品「日本に於けるクリップン事件」その他を批評して「話の筋というものが芸術的なものかどうか、非常に疑問だ」、「筋の面白さが作品そのもの芸術的価値を強めるということはない」などの発言をする。するとこれを読んだ谷崎が反論、当時「
改造」誌上に連載していた「饒舌録」の第二回(3月号)に「筋の面白さを除外するのは、小説という形式がもつ特権を捨ててしまふことである」と斬り返した。これを受け、芥川は同じ「改造」4月号に(「改造」の記者の薦めもあったと思われる)「文芸的な、余りに文芸的な――併せて谷崎潤一郎君に答ふ」の題で谷崎への再反論を掲げるとともに、自身の文学・芸術論を展開した。以後さらに連載は続き、谷崎の再々反論、芥川の再々々反論があったが、同年七月芥川の自殺によって、「改造」誌を舞台に昭和初頭の文壇の注目を集めた両大家の侃々諤々の論争は幕切れとなった。