室町時代の末期の
応仁元年(1467年)から始まった応仁の乱を、梁の宝誌和尚作と伝えられている『
野馬台詩』末六句に予言された「
修羅闘諍」の世界に当てはめて描いたもので、西軍の大将
山名持豊(宗全)が「猿」(申年生まれであるため)、東軍の大将
細川勝元が「犬」(戌年生まれであるため)と「猿犬称英雄」(猿犬、英雄と称す)の句になぞらえることができる。
しかし、
文明9年(1477年)まで10年余りに続いた乱のすべてを記しているわけでなく、「猿犬」両将の細川勝元と山名持豊の死までである(両者の死の前後から細川・山名両氏で和睦交渉が進んでおり、両者の死の翌年には和睦が成立している)。また、『一巻本応仁記』で「創作」された
日野富子が
足利義尚庇護を山名持豊に依頼した書状は、日野富子が乱の元凶であったとする説を現在にまで流布させる要因となった。