建久3年(
1192年)3月までは、後白河法皇による
院政が続いた。後白河の死後は
関白九条兼実が朝廷を指導した。兼実は後白河が忌避した
源頼朝への
征夷大将軍の授与を実現したが、頼朝の娘の入内問題から関係が疎遠となった。これは
源通親の策謀によるといわれる。同7年(
1196年)、源通親の娘に皇子が産まれた事を機に政変(
建久七年の政変)が起こり、九条兼実の勢力は朝廷から一掃され、兼実の娘・
任子も
中宮の位を奪われ宮中から追われた。この政変には頼朝の同意があったとも言う。