後撰和歌集には、古今和歌集のような序文が付されていないため、その成立年時は不明である。だが、
天暦5年(
951年)10月、宮中の
昭陽舎(梨壺)に撰和歌所が置かれ、その寄人に任命された
源順・
大中臣能宣・
清原元輔・
坂上望城・
紀時文(以上、
梨壺の五人)が中心となって『
万葉集』の訓詁と新たな勅撰集の編纂に当たり、
藤原伊尹が別当となってそれを統括した旨、史書
[『本朝文粋』巻十二 奉行文 源順。新日本古典文学大系本、p.342。][「後撰和歌集藤原定家天福2年書写本書入定家勘物」、新日本古典文学大系本、p.443。]に見えるので、遅くとも天暦末年には奏覧されたと見られる。奥村恒哉は、作者名の表記の仕方から、天暦9年から
天徳2年(
958年)の間に成立したとする。また山口博は、天暦7年(
953年)
10月28日に皇太后
藤原穏子により昭陽舎で菊合が開かれており、穏子は翌年昭陽舎で没していることから、その頃には完成していたとしている。しかしいずれの説も定説とはなっていない。
前代の古今集と違うのは、撰者の歌がない点である。『古今集』撰進から四十余年しか経っていないこともあり、
紀貫之(81首)・
伊勢(72首)・
藤原兼輔(24首)ら、古今時代の歌人が再び主役を演じた。入集を果たした当代歌人の中で、上位は
藤原師輔・同
実頼・同
敦忠などで、権門の作が多く採られているが、
中務・
右近ら当代の女流歌人の活躍も見られる。また、
歌物語の影響を受けてか、詞書が長文化した。これについては上記のように「未定稿」であるため、物語的な詞書が残ったとする見解がある
[片桐洋一 (1990)]。
宇多法皇や
藤原時平、
仲平と伊勢との間の贈答をはじめとする贈答歌など、貴人の日常生活に基づいた「褻(け)の歌」が多いのもこの集の特色である。