唐末の混乱期に、
突厥沙陀部族出身の
李克用が
河東節度使として晋陽(
太原)に駐屯し、
山西地方に打ち立てた軍閥(
晋国)がその前身である。李克用は唐の朝廷から晋王の位を授けられたが、
朱全忠との勢力争いに敗れた。朱全忠が唐を滅ぼして
後梁を立てると、李克用はこれを認めず後梁と戦った。李克用の死後、子の
李存勗が晋王を継ぐと後梁の内紛もあって晋が優勢となり、力を得た李存勗は
923年皇帝を名乗って後唐を建国した。同年に後梁を滅ぼして中国北部の大部分を制圧し、洛陽に都を移した。
李存勗(荘宗)はさらに
四川地方の
前蜀を滅ぼし、南方の諸国(
十国)に帝位を認めさせて中国の再統一を進めたが、次第に驕慢となり奢侈に走って将士の信頼を失い、
926年地方反乱に見舞われる中で部下によって殺された。李克用の養子
李嗣源(明宗)は、反乱を収拾させると自ら帝位についた。宰相
馮道を登用し、政治の建て直しを進めた明宗の治世は比較的平穏に過ぎたが、その晩年再び帝位をめぐる混乱が起こった。
933年、明宗が病床に倒れると秦王
李従栄が簒奪を企てて殺され、明宗の没後
李従厚(閔帝)が後を継ぐと、明宗の養子
李従珂が反乱を起こし、帝位を奪った。