17世紀に入ってヨーロッパで
穀物価格が大きく下がると、穀物が重要な輸出品であったポーランドの国内で社会の各階層どうしの利害対立が広まり、ロコシュの規模が大きくなった。1606年には
ミコワイ・ゼブジドフスキをリーダーとした
カトリックと
プロテスタントの両派からなる有力貴族たちのグループが、民主主義を廃止して
絶対主義を確立しようと画策する国王
ジグムント3世とそれを後押しする
イエズス会に対して、
黄金の自由と宗教的寛容(プロテスタントの権利の保護)の2つを求めて大規模なロコシュを起こした(
ゼブジドフスキの乱)。ポーランド史最大のロコシュは、1648年から1657年にかけて、当時はポーランド王国領であった
ウクライナで、ポーランド国会(セイム)の
コサック(首都
ワルシャワの中央政府に登録されたコサックはポーランド・リトアニア同君連合における正式な地方貴族すなわち
シュラフタだった)冷遇政策に反発したコサックたちが
自治権などコサックの権利拡大を求めてポーランド国王の錦の御旗を立てて起こした
ボグダン・フメリニツキーの乱であると言える。
強訴は当時のポーランドでは
ヘンリク条項や議会に関する契約(
パクタ・コンヴェンタ)により法的に明確に定められた権利(
抵抗権)で、全ての貴族にその権利が認められており、強訴が鎮圧されても首謀者は強訴そのものの行為では罪に問われない。実際に上記のゼブジドフスキの乱でも
反逆罪は適用されなかった。フメリニツキーの乱でもフメリニツキーはワルシャワの中央政府で正式に登録されたコサックで
シュラフタ(ポーランド貴族)とみなされており、しかも国王の錦の御旗を立てることでこれは強訴でありポーランド国家そのものに対する反逆行為ではないことをアピールしている。