しかし翌2年(
1170年)には召還され本位に復し、3年(
1171年)に
従三位となって
公卿に列する。
承安3年(
1173年)
兵部卿、
安元2年(
1176年)
正三位と進み、これを極位極官として翌3年(
1177年)に
出家。その後、子の
信基や甥の時忠は
治承・寿永の乱の中で平家一門とともに西走、敗戦の末捕えられ配流されるという波乱の生涯を送っているが、既に引退していた信範はこれとは別に静かな余生を送ったとされる。また、基実の遺児である基通の庇護にも力を尽くし、基通の叔父である
藤原兼実に息子・
信季を仕えさせて兼実と基通の橋渡し役をさせている。兼実の日記『
玉葉』には信範と兼実の親交の記事が登場する(承安元年5月末日・治承3年12月15・16日条他)。更に基通の側室となった末娘は
右大臣近衛道経を生んでいる。