皇帝になったといっても単独では後周に対抗する力を持たない劉崇は北の
遼に救いを求め、以後は遼の衛星国家として遼の兵力を持って後周と対立する。
954年に後周の郭威が死んで
柴栄が即位するとこの隙を突くべく、翌年に大軍を南下させて沢州・高平(現在の山西省・晋城県)で激突した。当初は有利に戦況を進めていたが、将軍
趙匡胤の奮戦などで敗北して太原へ逃げ帰り、まもなく劉崇は死去する。
968年に劉鈞が死に、劉崇の孫で劉鈞の養子になっていた劉継恩が擁立されるがすぐに殺されて、同じく劉崇の孫で劉鈞の養子の劉継元が帝位に即位する。劉継元は
宦官に政治を任せ、帝位のライバルとなる血縁を殺して回ったので政治は混乱し、
979年に宋の
太宗の
親征軍を受けて降伏し、北漢は滅び、これにより宋による中国統一が完成した。その後、劉継元は宋から
彭城公に報ぜられて天寿を全うした。