天正10年(
1582年)3月、織田信長の侵攻で
武田氏が滅亡し(
武田征伐)、
甲斐の遺領は
河尻秀隆、
信濃の一部と
上野の西部は
滝川一益に与えられ、一益は
関東管領を自称した。しかし6月に信長が
本能寺の変で
横死し、甲斐の河尻秀隆が
土豪一揆で殺害され、同国が無主の国となると、氏直は4万3千を称する大軍をもって上野侵攻を開始し、6月16日には倉賀野表(
群馬県高崎市)に進出する。
本庄に本営を置き、富田、石神に布陣、6月18日には金窪城で滝川軍と北条軍は激突し、初戦では先鋒が敗退したが、6月19日の
神流川の戦いで氏直本軍が一益軍に勝利した。そして敗走する一益を追って上野から信濃に侵攻し、佐久・小県郡を支配下におさめ、諏訪へ進軍し、更に木曽義昌とも連絡を取り信濃の中央部を制した。8月には甲斐に侵攻してきた徳川家康軍と甲斐若神子において対陣した。「甲斐は祖父(
武田信玄)の旧領国」ということで領有を強く望む氏直と、徳川軍との対陣は80日間に及んだ(
天正壬午の乱)が、一益敗退後に北条に帰参していた
真田昌幸が離反し、別働隊の
北条氏忠が甲斐黒駒において徳川方の
平岩親吉に敗退すると戦線は膠着した。その後、織田信雄、信孝の調停もあり、10月27日、上野は北条、甲斐信濃は徳川が領有し、家康の娘が氏直に嫁ぐことで両軍の和睦・同盟が成立する。そしてこの結果として、天正11年(
1583年)8月15日、家康の娘・
督姫が氏直に嫁いだ。