1883年、東京専門学校(現在の
早稲田大学)政治科に入学(東京専門学校には、明治19年頃まで籍を置いていたとされるが、卒業はしていない)。
自由民権運動に参加したが、運動は次第に閉塞してゆく時期であり、
大阪事件の際同志から活動資金を得るため強盗をするという計画を打ち明けられ勧誘され絶望し、運動を離れた。
1888年、数寄屋橋教会で
洗礼を受けた。同年、石坂ミナと結婚。
1889年『楚囚の詩』を自費出版したが、出版直後に後悔し自ら回収した。
1891年『蓬莱曲』を自費出版。
1892年に評論『厭世詩家と女性』を『
女学雑誌』に発表し、近代的な恋愛観(一種の
恋愛至上主義)を表明した。「恋愛は人世の秘鑰(ひやく)なり」(鑰は鍵の意味)という冒頭の一文は島崎藤村や
木下尚江に衝撃を与えたという。
1893年に創刊された『
文学界』誌上に「人生に相渉るとは何の謂ぞ」、「内部生命論」など多くの文芸評論を執筆(当時は
尾崎紅葉ら
硯友社の最盛期であった)。また、イギリスから来日した
クエーカー教徒のジョージ・ブレイスウェイトと親交をふかめ、その影響もあって絶対平和主義の思想に共鳴し、日本平和会の結成(1889年)にも参画、機関誌『平和』にも寄稿した。しかし、日清戦争前夜の
国粋主義に流れる時勢も反映したのか、次第に精神に変調をきたし、1894年、
芝公園で自殺。享年27。