1915年、上京して
小石川茗荷谷の伯父の家に寄食し、「太平洋画会」「川端画塾」に通い、画家を目指しながら文学も志し
東郷青児、
関根正二らと親交を結び、
生田長江に
佐藤春夫を紹介される。東郷、佐藤春夫と第6回二科展に油彩を出品するも選に入らず絵筆を折る。またこの頃東郷のとりもちで、燕楽軒で女給をしていた
宇野千代とも短期間交際した。1917年11月、
室生犀星の詩誌「感情」に詩篇「父の乗る船」掲載、1918年秋、駒込佐藤春夫宅で
谷崎潤一郎に遇い、以後生涯師と仰ぐこととなった。谷崎の非常勤無給秘書を務めながら、1920年、一高寮で知り合った
川端康成、
鈴木彦次郎らと交友を深め
一高のモグリ学生となり「盗講」と称し、
芥川龍之介の勧めに
塩谷温博士の中国古典講義を聴講した。
1921年、川端の強い推薦により、ともに第6次「
新思潮」の発刊に同人として参加。『支那文学大観』の刊行に際しては「桃花扇」「牡丹亭」の訳出を担当し、帝大生の論文の代筆も引き受けるほどの学殖だった。1922年秋『
新潮』に発表した随筆「出目草子」を認められて
菊池寛の訪問を受け『
文藝春秋』創刊に参画。その後石浜金作らと新進作家による「文芸時代」創刊に参加し、1924年「軍艦」、1925年「痩せた花嫁」などを発表、1924年創刊の『
苦楽』に発表した「朱雀門」も高く評価され、新感覚派文学運動の作家としての位地を得る。しかし菊池寛が『文学講座』の刊行に際して東光が正規の文学士ではないという理由から執筆メンバーから外し、また『文藝春秋』1924年11月号に掲載した「文壇諸家価値調査表」というゴシップ記事(執筆は
直木三十五)に腹を立てて反駁文を『新潮』に掲載、これらのことをきっかけに激しく菊池寛ら「既成文壇の権威」と対立し袂を別ち、「文芸時代」も脱退。
新潮社の
中村武羅夫らによる「不同調」に参加すると同時に、神楽坂・白銀町に文党社を興し同人誌「文党」を創刊。
村山知義が表紙画を担当、
サトウハチローらが参加し、参加者がプラカードをぶら下げて「文党」の歌を歌いながら街頭を練り歩くなどもした。「苦楽」に掲載した「異人娘と武士」は
阪東妻三郎プロダクション第1回作品として映画化されて大当たりし、この縁で阪妻プロの顧問となって、一時
京都嵯峨野にも住む
[当時の東大出の月収が50円だった時代に顧問料は150円。作家業を含めると1000円程の月収があったという。]。また
関東大震災の時に一緒に逃げ歩いた、元女優の人妻とのちに結婚する。1925年に処女作品集『痩せた花嫁』を出版し好評を受け、雑誌からの執筆依頼も増える。