嘉暦2年(
1327年)、8歳で元服して正五位下
侍従となり、わずか2年で従三位
権中納言に昇進する。ところが13歳の時、
元弘の変が発生して
後醍醐天皇は
隠岐島に配流され、
内覧であった父・二条道平は倒幕への関与が疑われて幽閉され、良基も権中納言兼
左近衛中将の地位を追われた。このため、二条家は
鎌倉幕府より断絶を命じられる(『
花園院宸記』正慶元年4月10日条)状況に追い込まれたが、翌年に鎌倉幕府が滅亡、
京都に復帰して
建武の新政を開始した後醍醐天皇に仕える。二条道平は
近衛経忠とともに内覧・
藤氏長者として
建武政権の中枢にあり、新政が実質上開始された
元弘3年(
1333年)には姉の栄子が後醍醐天皇の女御となり、良基も14歳で
従二位に叙された。ところが、
建武2年(
1335年)に父・道平が急逝、翌建武3年(
1336年)には足利尊氏によって政権を追われた後醍醐天皇は吉野へ逃れて
南朝(吉野朝廷)を成立させる。叔父の師基は南朝に参じたが、この年17歳で
権大納言となっていた良基もまた天皇を深く敬愛していたにもかかわらず、後見であった曽祖父
二条師忠(実は大伯父)とともに京都にとどまり、北朝の
光明天皇に仕える。なお、師忠・良基いずれの意向かは不明であるが、
足利将軍家が擁する光明天皇の元服・践祚の儀式が行われたのは、二条家の邸宅であった
押小路烏丸殿である
[木藤、1987年、P 27-31・小川、2005年、P21-24]。
光明天皇もこれに応えるべく、
暦応元年/
延元3年(
1338年)には良基に
左近衛大将を兼務させ、その2年後に21歳で
内大臣に任命している。内大臣任命の前年には母を、任命の翌年には曽祖父・師忠を相次いで失うが、その間にも北朝の公卿として
有職故実を学ぶとともに、朝儀・公事の復興に努めた。
康永2年(
1343年)、良基は
右大臣に任命されるが、同時に
左大臣には有職故実の大家で声望の高い
閑院流の
洞院公賢が任じられた。
一条経通・
鷹司師平と前現両関白はともに公賢の娘婿であり、良基と公賢は北朝の宮廷において長く競争相手となる。康永4年/
興国6年(
1345年)には、当時左大臣である公賢が慣例的に
一上と認められていることに、良基が一上補任の
宣旨が無いことを理由に異議を挟み、自らがその職務を務める意思を示している(『
園太暦』
目録康永2年5月18日条・『
師守記』同年7月17日条)。これは、公賢から朝儀・公事の復興の主導権を奪って自分が朝廷再建の中心に立とうとする積極的な意思表明であった。なお、この年には良基最初の連歌論書である『僻連抄』が著されている
[木藤、1987年、P31-37・小川、2005年、P24-29]。