なお
三井財閥は
血盟団事件 (1932年2月〜3月) で
団琢磨を暗殺されて以後、青年将校らによる過激な運動の動向を探るために「支那関係費」の名目で半年ごとに1万円を
北一輝に贈与していた。三井側としてはテロに対する保険の意味があったが、この金は二・二六事件までの北の生活費となり、
西田税(北の弟子で
国家社会主義思想家)にもその一部が渡っていた
[大谷敬二郎『昭和憲兵史』みすず書房、1979年、pp.211-212. 当時の総理大臣の年棒が8,000円であったことから、年額2万円は相当な額であると大谷は書いている。]。2月22日の時点で北は西田から蹶起の意思を知らされていたが、このときに北は「已むを得ざる者以外は成るべく多くの人を殺さないという方針を以てしないといけませんよ」と諭したという
。
青年将校らは主に東京
衛戍の歩兵第1連隊、同第3連隊、近衛歩兵第3連隊に属していたが、
第1師団の
満州への派遣が内定したことから、彼らはこれを「昭和維新」を妨げる意向と受け取った。そこで第1師団が渡満する前に蹶起することになり、実行は1936年(昭和11年)2月26日未明と決められた。なお慎重論もあり、
山口一太郎大尉や、民間人である北と西田は時期尚早であると主張したが、それら慎重論を唱える者を置き去りにするかたちで事件は起こされた。