高知城下の山田町に生まれる。
文久元年(
1861年)2月に父が死去し、5月には
家督を相続して
足軽身分となる。文久2年(
1862年)には
藩校の
文武館開校と同時に入門し、
細川潤次郎、
萩原三圭らの門下で学ぶ。外国語なども学び、
慶応元年(
1865年)9月には、藩が派遣する留学生として長崎へ赴く。このころ郷土の先輩である
坂本龍馬と出会っている。龍馬に頼まれてたばこを買いに走った、などの逸話を残している。その後、幕府の語学所学頭平井義十郎からフランス語を学ぶなど外国語習得に努める。慶応3年(
1867年)5 - 6月に江戸へ上京し、
村上英俊の達理堂で学ぶが破門され、横浜天主堂の僧にも学んだという。同年末に兵庫が開港されると上方へ赴き、フランス外交団の
通訳を務める。
王政復古により江戸幕府が消滅して明治になると、
苗字の名乗りを許される。兆民は通訳を辞職して東京へ戻り学問を続ける。
福地源一郎(桜痴)の日新社の塾頭となりフランス語を教えたといわれるが長続きせず、
箕作麟祥の家塾にも入門。明治3年(
1870年)には大学南校大得行生となっている。翌明治4年(
1871年)、
廃藩置県により土佐藩の身分制から開放され、明治政府が派遣した
岩倉使節団には司法省9等出仕として採用される。このとき、篤助は
大久保利通に採用を直訴したという。同年11月には横浜から出発し、アメリカから
第三共和政時代の
フランスへ渡る。フランスではパリ、リヨンに滞在し、
西園寺公望とも知り合う。
明治8年(
1875年)には
東京外国語学校の校長となるが、徳育教育を重視する兆民は教育方針をめぐり文部省と対立したとされ、直後に辞職。
元老院副議長の
後藤象二郎より同院権少書記官に任命され、調査掛に配属され、調査課、調査局翻訳掛を経て、翌明治9年(
1876年)には国憲取調局掛を兼ね、
井上毅らとともに国憲案作成のための調査や翻訳を行う。
勝海舟とも知り合い、翌年には縁談を持ちかけられるが破談。勝や薩摩閥の
海江田信義、海江田を通じて
島津久光とも知り合い、「策論」を建言したという。明治10年(
1877年)に辞職。同年には
西南戦争が起こっているが、仏学塾で学んだとも言われる
宮崎八郎の薩摩軍参加を止めるために兆民が熊本へ赴いたという伝承もある。明治13年(
1879年)には高知県
士族の娘の鹿と結婚するが、翌年には離婚している。