現
フィンランドのスヴェヤボルクに退役海軍軍医の子として生まれる。国費給付される学生として
モスクワ大学に在学中、
農奴制を攻撃した戯曲『ドミトリー・カリーニン1831年』を書いて、〈能力が薄弱で不熱心〉という名目で放校される。『文学的空想 1834年』によって批評活動をはじめ、
スタンケーヴィチ、
ゲルツェン、
バクーニンなどと親交を結んだ。
1839年から雑誌『祖国の記録』を中心にいろいろな雑誌に論文・時評・書評を書き続け、
1846年に『祖国の記録』を辞し、
ネクラーソフなどの雑誌『同時代人』に参加した。肺患が悪化したため、
1847年にドイツに転地し、最後の論文『1847年のロシア文学の概観』を口述した後まもなく、
ペテルブルクで没する。
政治的な著作を書かなかったが、ベリンスキーは専制とドグマ、同調主義に対して、生涯をかけて戦った。ゴーゴリが自らの使命に反して
ロシア正教・農奴制を擁護したことを責めた、ベリンスキー晩年の『ゴーゴリへの手紙』は、彼の情熱・真剣さ・不正への怒りが入り交じった文体の代表であろう。この志の高さと音調が1860年代のロシア左翼の著述家たちに長く続く影響を残し、
プレハーノフや
レーニンなどの社会主義者に
ロシア革命の先達として、ゲルツェンと並ぶ地位を与えられた。〈ロシアの
レッシング〉という評価は、当たっていなくもない。