プレブスの起源は、パトリキと同様によく分かってはいない。人種的な区分を示す根拠にも乏しく、また
王政ローマ時代には両者の区別はあまりされてはいなかった。しかしながら王政初期
ロムルス、
ヌマ、
トゥッルス・ホスティリウスの治世までのローマ市民は全てパトリキと呼ばれていることから、以後
アンクス・マルキウスの治世よりローマに移住した人々をプレブスと呼んでいたらしい。当初プレブスはローマ社会で二級市民として認知されており、
共和政への転換期前後までは、宗教的な儀式および行政に関わることは許されてはいなかった。
プレブスは徐々に力を増し、既存勢力であるパトリキと対立してくる。まず独自の
民会を作り、またローマを去りモンテサクロの山に立てこもるなどパトリキに対して反発。この姿勢に元老院議員であるパトリキは妥協し、
紀元前494年に民会で
拒否権という強大な権限を持ちかつプレブスのみが就任できる公職、
護民官の設置を承諾する。これ以降プレブスの中でも裕福な者は元老院議員として支配階級に迎え入れられ、
リキニウス・セクスティウス法により
コンスルもプレブスに開放される。そして
紀元前1世紀にはパトリキ系の元老院議員が減少し、プレブス系の元老院議員が多数を占める中で両者の違いの意味はさほど重要でなくなっていった。