パリに生まれたトリュフォーは両親の離婚から孤独な少年時代を過ごし、幾度も親によって感化院に放り込まれるような、親との関係で問題の多い少年だった。1946年には早くも学業を放棄し、映画館に入り浸り、1947年には
シネクラブを組織し始める。そのころ、のちに映画評論誌「
カイエ・デュ・シネマ」初代編集長(1951年 - 1958年)となる
批評家アンドレ・バザンと出会う。以降バザンが死ぬ(1958年)まで親子同然の生活を送る。バザンの勧めにより映画評論を著すようになり、「カイエ・デュ・シネマ」を中心に先鋭的かつ攻撃的な映画批評を書きまくる。とくに「カイエ」1954年1月号に掲載された『フランス映画のある種の傾向』という一文の厳しい論調故に、当時は「フランス映画の墓掘り人」などと揶揄された。
最初の短編映画を発表したのち、1956年、
ロベルト・ロッセリーニの助監督となる。翌1957年、配給会社の社長令嬢と最初の結婚をする。同年、製作会社
レ・フィルム・デュ・キャロッス社を設立、二作目の短編映画(『あこがれ』)演出し、翌1958年公開。
1959年、キャロッス社とSEDIF(義父の会社コシノールの子会社)の共同製作による処女長編『
大人は判ってくれない』を監督し、大ヒット。トリュフォーとヌーヴェルヴァーグの名を一躍高らしめることとなった。トリュフォー自身の体験談を下敷きにして作られた『大人は判ってくれない』は、その後
ジャン=ピエール・レオ演ずるアントワーヌ・ドワネルを主人公とする「アントワーヌ・ドワネルの冒険」としてシリーズ化され、『
逃げ去る恋』(
1978年) に至るまで合計5本制作された。このとき出逢った当時コシノールのマネジャー
マルセル・ベルベールは、キャロッス社の大番頭的存在となり、またトリュフォー作品にカメオ出演し続けることになる。
1968年の
カンヌ国際映画祭においてはコンテストの必要性の有無を巡って大論争が巻き起こり、トリュフォーはカンヌ国際映画祭粉砕を主張して最も過激な論陣を張った。しかし、この出来事を一つのきっかけに、盟友であった
ゴダールとの決別を始めとしてヌーヴェルヴァーグの面々と疎遠になり、映画の作風も古典的、正統的な落ち着きを見せ始める。恋愛しか題材として取り扱わないことを含め、若い批評家たちからは「トリュフォーは自分がその地位につくために、
ジュリアン・デュヴィヴィエや
クロード・オータン=ララ等の古い大作家たちを批判し貶めたのだ」と批判されたが、トリュフォーは「暴力は嫌いだから戦争映画や西部劇は作りたくないし、政治にも興味はないから自分には恋愛映画しか作れない」と一向に意に介することはなかったという。