1873年、フランスは
フランシス・ガルニエ率いる部隊をトンキンに派遣し、ハノイを攻略したが、この時は甲戌条約(第二次サイゴン条約)によって撤兵している。しかし資源が豊富で人口も多く、
中国と接するトンキンはフランスの垂涎の的であり、
1882年、
アンリ・リビエール率いるフランス軍が再びトンキンに侵攻した。
フエ(順化)の
阮朝宮廷は
1883年に癸未条約(アルマン条約)を締結して、本来
アンナン(安南)に属する
タインホア(清化)、
ゲアン(乂安)、
ハーティン(河靜)の3省をトンキンに編入し、トンキン地方をフランスの保護領と認めざるを得なかった。フエの宮廷はトンキンに
副王を派遣して地方行政を管理させ、フランスがトンキン
理事官を付けて監視させる体制である。さらに
1884年の甲申条約(パトノートル条約)で省レベルの行政は実質的にフランス人がコントロールすることとなった。このようなフランスの侵略は
清朝の軍事介入を招き、トンキン地方は戦火に見舞われることとなる。