占領地域の日本軍はソ連軍によって武装解除され
[その最中にソ連兵士によって殺害されたものも相当いるという。なお、このときのソ連兵には規律がなく、なぜ日本軍が負けたのか訝しがる兵士が多かったらしい。]、
9月5日の山田ら関東軍首脳を手始めに、日本軍将兵、在満州民間人・
満蒙開拓移民団の男性が続々と
ハバロフスクに集められた。彼らは日本に帰れることを期待していたが、ソ連は捕虜を1000名程度の作業大隊に編成した後、貨車に詰め込んだ。行き先は告げられなかったが、日没の方向から西へ向かっていることが貨車の中からでも分かり絶望したことが伝えられる。抑留された捕虜の総数は、作業大隊が570あったため、当初は57万名が連行されたと考えられたが、65万人というのが定説である。一説には200万人以上
[アルハンゲリスキーの著作およびマッカーサー元帥の統計より]とも言われる。モスクワのロシア国立軍事公文書館には約76万人分に相当する量の資料が収蔵されている
[[外部リンク] シベリア抑留、露に76万人分の資料 軍事公文書館でカード発見 産経ニュース 2009.7.24]。