江戸時代の大名家では、
藩主やその一族、
家老などの一団の領袖となりうる立場の人間が派閥を作りあげて内紛を繰り広げた例が数多くあった。そのような事象が脚色されて、
狂言の
御家物と呼ばれる様式の題材となって伝わったり、
講談を通じて広まったことにより、お家騒動として江戸の庶民に知られるようになる。そのために演目とすることがはばかられた
将軍家や、内訌の規模が小さい
江戸幕府の
旗本や
商家、
農家におけるもめごとはお家騒動とは認知されていなかった。
また、藩主と家臣団の軋轢を要因としてお家騒動を起こした例もあった。有力な家臣を排除することで自身の権力を強化しようする藩主がいる一方で、家臣にとって不利益だったり、無能な主君を
隠居や
押込などの手段で廃立しようとする家臣も存在した。また、諍いが原因で大名家を出奔した家臣がお家騒動の発端をつくった例もある。
こうした内紛は大名家のなかで解決するのがならわしだが、問題を幕府や
本家、親族の大名に訴え出ることで仲介や裁定をたのんだ当事者もいた。特に
江戸時代初期の騒動では、求めに応じた幕府が審理にもとづいて大名家に介入し、
改易や減封、転封などの処置を下している。しかし、
江戸中期の
徳川家宣の治世を経て、幕府は政策を改めて関与を徐々に減らし、19世紀はじめの
仙石騒動を最後に、お家騒動への介入は行っていない。